1986年4月8日の昼過ぎ、編集部に私宛ての電話が入った。相手は飲み仲間である某全国紙社会部記者。受話器を取ると、彼がうわずった声でこう話してきた。
「岡田有希子が病院に運び込まれたって、共同(通信)の速報が流れたんだけどさ。何かつかんでる?」
まだSNSどころか携帯電話すらない時代。各新聞社には「ピーコ」と呼ばれる、通信社から速報を伝えるスピーカーがあり、それを受け記者たちが一斉に現場へ飛んでいく、そんな時代だった。さっそく、岡田が所属するサンミュージックがある四谷4丁目までタクシーを飛ばすと、事務所ビル前にはすでに黒山の人だかりができていた。
この年の3月、岡田は堀越高校卒業を機に、下宿していたサンミュージック・相澤秀禎社長宅を出て、南青山にあるマンションでひとり暮らしを始めたばかりだった。
この日の午前9時過ぎ、岡田はマンションでガス自死を図っていた。住民に取材すると、
「ガスの臭いに気付いた上階の方が自治会長に連絡しました。ただ、ドアチェーンがかかっていて、中に入れない。で、110番通報。駆け付けた警察官がチェーンを切って中に入ると、左手首から血を流して倒れている岡田さんを発見した」
病院に運ばれた岡田は、手首を4針縫う全治10日間との診断を受けた。所属事務所の福田時雄専務によれば、
「ユッコを連れて事務所に戻り、6階の社長室で社長の到着を待つことになった。でも、彼女は泣きじゃくるばかり。社長から電話が入り、私が席を外した瞬間に『ちょっとティッシュを取ってくる』と…」
そのまま屋上へと出る踊り場へ駆け上がった岡田は、病院から履いてきたスリッパを揃えると、屋上から飛び降りたのである。黒いタイトスカートに黒いブラウス。まだ18歳だった。
彼女の死後、ドラマで共演していた俳優・峰岸徹宛に〈待っていたけど、あなたは来てくれなかった〉との遺書らしきものがあったことから「失恋による自死」として騒然となった。
コメント一覧