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2023/04/05 10:00鈴木直道
財政破綻した夕張市は、どのような状況だったのか。市長として再建に取り組んだ北海道の鈴木直道知事は「経費削減のため、市役所では冬でも午後5時に全館の暖房を切っていた。職員はマイナス5度の室内でスキーウエアやベンチコートを着込んで働くしかなかった」という――。
■炭鉱の閉山によって、少子高齢化が急速に進んだ
北海道のほぼ中央に位置する夕張市は、明治時代から「炭鉱のまち」として栄えてきました。
当時、石炭事業は国の基幹産業で、「黒いダイヤ」と呼ばれる良質の石炭が採れる夕張には、国策として多大な資金や資材が投入されました。戦後も石炭エネルギーの供給基地として発展を続け、1960年代の最盛期には12万人近くの人口を擁していました。当時の写真を見ると、まるで東京の渋谷か原宿のように商店街には人が溢れています。
炭鉱の住宅、電気、ガス、水道、病院などの生活インフラは民間の炭鉱会社が運営し、しかも利用料は無料。身一つで夕張へ来てもお金を稼げる仕組みが整っていたのです。
しかしその後、国のエネルギー政策が石炭から石油へと転換。炭鉱は相次いで閉山に追い込まれ、職を失った人たちは次々と夕張を去りました。石炭産業以外の産業基盤が乏しかったため、働き手である若者の転出は顕著で、少子高齢化が急速に進んでいきました。
■大型リゾート開発に乗り出すが、市の財政は破綻
市は、残された炭鉱住宅や病院、上下水道設備などを買い取るために、1979年から15年間で約584億円を投入し、332億円もの地方債を発行せざるを得なくなりました。
逼迫した財政を立て直すため、「炭鉱から観光へ」の旗印を掲げて大型リゾート開発に乗り出したものの、過大投資と第三セクターによる放漫経営がたたり、ついに市の財政は破綻。2007年、353億円という巨額の赤字を抱え、財政再建団体となるに至ったのです。
最盛期に12万人近くだった人口は、私が東京都から派遣された頃には1万人台を割り込むのが目前に迫り、さらに減り続けていました。働き盛りの市の職員も、次々と夕張から去っていきました。「生まれ育った夕張で仕事を続けたいが、このままではとても生活できない」と嘆きながら。
財政破綻後、市職員の給与は年収ベースで平均4割カットされ、市が借金を返し終わるまで、それが続くことになっていました。進学を控えた子どもや住宅ローンを抱える職員は、人生設計の変更を余儀なくされ、後ろ髪をひかれる思いで故郷を離れていったのです。
■マイナス5度の室内で、職員は夜遅くまで働いていた
初めて夕張市役所に出勤した日のことです。
私は、机の上の書類を確認してはパソコンに入力する作業を繰り返しながら、「初日だし、歓迎会でも開いてくれるのかな」と、のんきに考えていました。
しかし、そんな気配はまったくないまま、退勤時刻の午後5時になりました。
同時に、それまで聞こえていた暖房の音が止まりました。すると皆は突然立ち上がり、スキーウエアやベンチコートを着込み、指先の自由が利く手袋をはめると、またパソコンに向かいます。誰一人、帰ろうとする人はありません。
そのうちに、館内は急速に冷え込んできました。冬の夕張の夜は外気温がマイナス20度近くになることもあり、室内でも暖房がないとマイナス5度程度になります。私もスーツの上にコートをはおり、厚手の手袋をして仕事を続けましたが、それでは満足にキーボードを打てない。手袋を取ると、あまりの寒さで指が動かない。ついに夜10時過ぎに限界になりました。
「すみません、今日は初日ですし、お先に失礼させていただきます」と挨拶して家路につき、翌日からはしっかり厚着をして出勤するようになりました。
■残業しても暮らしていくのがやっとの給料しかもらえない
この一件で私は、市役所が経費削減のために冬でも午後5時に全館の暖房を切っていること、職員は皆そこで夜遅くまで働いていることを知りました。しかし、それは財政破綻による影響のほんの一端に過ぎないことを、最初の給料日に痛感したのです。
その日、所用から戻ると、机の上に給与明細が置かれていました。私の給料は東京都から出るので、夕張市の給与明細が配られるはずはなく、「あれ? おかしいな」と思って開けてみると、それは同じセクションにいる同年代の男性職員のものでした。
「あっ!」と思ったときには、記された金額が目に入っていました。
その額は、私が東京都からもらっている給料より何万円も少なかった。あれだけ残業しているのに、彼は暮らしていくのがやっとの給料しかもらっていないのです。
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