1年で二往復もさせられて東北や九州の大名はたまらんかったことだろう
実際に大阪城公園行くと、すごい広大で力攻めしようという気が起きないのよね。
想像の3倍くらい大きかったわ。
家康「堀埋めたし、もう裸城だからひとたまりもないぞ。浪人たちを追い出して今度こそ退去しろ」
秀頼「やだ(どうせ口先だけだろ、粘れば何とかなるだろ)」
家康「じゃあすぐ攻めるわ」
秀頼「え、ちょっと、そんなこと聞いてないんですけど」
開戦理由はなんでも良かったんだよ、鐘の件が無くてもガンつけられたみたいな理由で仕掛けてきたよ
昔から思っているが、堀を埋めるための(後からまた難癖付けて攻めるための)和議なのか?
それとも本気の和議だったのか?
和睦条件の「堀を埋める」を豊臣側が承諾した時点で終わったと思う。確かこの和睦は茶々の願いで豊臣側は妹の初、徳川側は側室阿茶局という女性同士の話し合い。阿茶局は政治的な能力にも長けていたから「堀を埋める」意味を十分理解し話を進めていたと思う。でも初はどうだったんだろう?彼女は普通の女性で姉の願いでこの話し合いに参加しただけだからなあ。
25年前に小田原城が包囲され100日くらいで北条が降伏したのを豊臣方は全員忘れてたのか?いくら「難攻不落の城」でも、中にいる人の心は毎日削られていくんだから、いくら兵糧を溜め込んでても耐えられなくなる。堀を強引に埋めたのは家康の焦りだろな。大坂の陣から1年くらいで家康は4んでる。家康が若かったら、包囲して時間をかけて降伏に追い込んだだろ。
浪人に頼った時点で詰んでた
無敵の人達の人生最後のお祭りになっちゃったからもう制御不可能
降伏しようにも浪人衆は城から追い出せって条件付いてるから出たら処刑の浪人衆が従うわけもない
堀を埋めたのワザとだろうな。
城ってなんだかんだ燃やされて落城してるイメージ。天守閣にあれこれやっていても本丸が攻められたら終わりそうよね。
例外は上田城くらいか?
そもそも、大阪城って石山本願寺跡じゃないの?
難攻不落でも、不吉なとこだね。。。
後詰の見込みが無い城は、どんな堅城だろうが落城する。
秀吉の登場で籠城策が無になったのにな、皮肉ですなあ

■3行でわかる
■大坂の陣で大坂城の堀が埋まり豊臣家が滅亡へ
大坂の陣では、冬の陣で持ちこたえた大坂城が、和議の条件として堀を埋めた後、5か月足らずで豊臣家が滅亡した。堅城として知られる城が、なぜ短期間で追い詰められたのかが焦点となる。和議が本心からの和平だったのか、再び攻めるための条件だったのかは意見が分かれている。城の守りだけでなく、援軍や和議の条件が結果を左右したと見る声もある。
■冬の陣で持ちこたえた大坂城が和議に応じた
大坂城は難攻不落の城として語られ、真田丸で徳川軍を退けた印象も強い。冬の陣で持ちこたえた後、和議の条件として堀を埋めることが受け入れられた。
■堀が埋まり城の防御は大きく変わった
堀は城へ近づく敵を妨げる防御設備であり、埋められれば籠城の前提も変わる。城が堅固でも、援軍にあたる後詰が見込めなければ守り続けるのは難しいという見方がある。
■和議の真意と浪人衆の扱いで見方が分かれる
堀を埋める条件が再攻撃を見据えたものだったのか、それとも当初は本気の和平だったのかは断定できない。浪人衆を城から退去させる条件もあったとの見方があり、豊臣方が受け入れにくい事情になったという解釈も出ている。
■みんなの反応
大坂城の広さや堅固さに驚く声、後詰のない籠城は難しいという見方がある。一方で、和議が本気だったのか、堀を埋めることが再攻撃の準備だったのかを疑問視する声も多い。
■よくある疑問
Q. 後詰とは何?
A. 籠城する側を外から助ける援軍のこと。後詰が期待できない城は、守り続けるのが難しくなるという見方がある。
大坂城の堀を埋める条件は、城の強みそのものを手放すほど重かった。和議の真意は断定できないが、防御を弱める条件を受け入れれば、その後の交渉力まで損なわれる。和平は言葉だけでなく、合意後の力関係で決まる。
堅城でも守りの前提が崩れると一変する、和議の条件の重さが身にしみる話やな。