書=シーズン、章=クール、節=話で置き換えるとページって秒数だから言いたい事はなんとなくわかる
単純に凄いよなで終わる話なのに、反応が欲しいからってサイコパスと強い言葉を使うから話が拗れる
イッチの言いたいことはなんとなくわかるわ。今は当たり前にあるからイッチが頭おかしいみたいに総叩きされてるけど、0を発見くらい盲点を見つけた感じな気がする。
今は聖書も「本」だけど執筆した当時は巻物型だったからページ数ではなく章で区切ったんやろうね
なんかすげぇ言いたいことわかる、章で分けられてるのはその話し自体だけども、ページってそんなん気にせずにぶった切ってるもんね
これはイッチの言ってること理解できるわ
言いたいことは分かるけどサイコパス云々はちょっと話が飛躍しすぎやな
確かに目当ての文章引くのに毎回章とか節を追っていくのは大変やもんな。内容に依らない区切りはあったほうがええわな。サイコパス云々は全く分からんが
言いたいことはわかる
でもぱっと見ですぐ見つけられるのはページ数だし、生まれることは自然だからあんま人の意思とか介在してなさそうだけどな
小学校の音読でも授業だと次の『。』まで読んでねって内容による分割が出来てたけど宿題の『~〇ページ』までだと訳分からんとこで文字ちぎれたよな
わからなくはない考え方だが、それを根拠にサイコパス呼びは極論よな
多分ゆるコンピュータ科学ラジオ見たな
みんな「クキキハクハククコケケ」
任意の場所を一意に表すための記号に過ぎないから別になんでもいいやろ
音楽だって、
サビの部分が好き
〇:〇〇〜の部分が好き
時間で表す人が曲の内容どうでもいいわけじゃないわけで
内容に適した区切りと媒体に適した区切りが違って両方あったほうが便利なだけでしょうさ
ページ数の概念は印刷技術が進んで多くの人が同じ版の本を手にするようになったから、より早く正確に伝わる記号として生まれただけだぞ。サイコパスとか話を盛るから、馬鹿にされるんだよ
例えば「〇章の〇節目を読んでください」って言われたら、どんなページ数の本でも同じところ読めるけど、「〇ページの〇行目を読んでください」って言われたら紙の大きさとかで1ページあたりに書いてある文字数が違うから全然違うところ読んでしまうもんね。
普通に考えて図鑑読む際あやふやのがダメだからとも考えられるが、その発想はまさにサイコパス風
なんとなくはわかるんだよなあイッチの意見も
でも大事だから順番を間違えないようにってのも腑に落ちる
実に興味深い
落丁乱丁が一瞬かつ確実に判別できるし、特に乱丁に関してはどことどこを入れ替えれば直るのかを素早く把握できる
書物がひと繋がりの巻物だった時代ならともかく、「本」になってからならむしろ本を大事に思う人の発明だと思うけどな
意外としっくりきた
内容を重視する章節区切りと、効率重視のページ区切りの違いか
正直イッチに同調してるやつは賢ぶりたいだけだろ
ページっていう区切りがあった方がどう考えても便利だしな
多分言いたいのは
「〇〇があるから□□なんです」
みたいな文があったとして
章とか節はこの文毎に分けてるけどページは
「〇〇があるか」「ら□□なんです」
みたいに文や単語の事を
気にせず切るから…みたいな?
まぁ言いたいことはわかるけど…なんか飛躍しすぎてるな
わからんでもないけど、聖書は本によって簡単にページ数が変わるわけで、雑誌内論文などの本を明確に指定するときは「巻(号):頁-頁」が使いやすすぎるんだよな。本の一部だけを読むのが情報が膨れ上がった現代の最適解
なるほど、主張は確かに筋が通っている
確かにページ数という概念を知らない状態から思いつける人間はそう多くない気がする
単純に活版印刷が発明されるまではページ数って概念が要らなかっただけだろ。
おんなじ聖書でも何ページに書いてあるか、なんて本によって変わるわけだし。
サイコパスって使うから変なだけで
言ってることはまあわかる























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